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還暦を迎える人の歴史

2013年に60歳を迎えるとして、彼らがどんな人生を歩んできたのか、歴史を追ってみてみましょう。なお、わかりやすく考えるために、細かい数字は切り捨てて計算します。60歳の方は、1953年に生まれました。 まず1945年に第2次世界大戦(太平洋戦争)が終わりました。いわゆる終戦です。日本はGHQによって占領されることになり、その占領は7年間続きました。1945+7なので、1952年にアメリカ軍が引き上げたわけですが、ちょうどその頃に生まれたことになりますね。 余談ですが「団塊の世代」と呼ばれているのは、終戦直後の1947年から1949年までの間に生まれた人を指しています。この定義の従えば、2013年に60歳になる人は、団塊の世代とは違っています。しかし団塊の世代の定義は様々あり、それらをまとめた結果、広義的には1946-1954年生まれを団塊の世代と呼ぶことになりました。そうすると、ぎりぎり団塊の世代に収まっていることになりますね。 そして世界的には、第二次世界大戦が終わり、冷戦の時代に突入します(正確には、世界大戦が終わる前から米ソの対立はあったのですが)。このとき、アメリカ占領下にあった日本は当然アメリカ側(「西側」)の国でした。 今でも韓国と北朝鮮が分断されているのは、この冷戦の名残です。そしてついに、1965年ベトナム戦争が勃発しました。米ソの直接対立はないものの、対立のあった政治グループを米ソが支援することで、いわば代理的に戦争が起こったのです。 これは、12歳の頃になります。つまり小学校6年生のときに、ベトナム戦争が起こったのですね。日本は復興期にテレビが発達したので、ベトナム戦争の報道も大きくされていたのかもしれません。 そして皮肉にも、このベトナム戦争のため、日本は高度経済成長期に入ります。アメリカ軍への物資を日本が生産・輸出することで利益をあげたのです。そして東海道新幹線も敷設され、東京オリンピックも開催されました。1970年には大阪万博もあり、日本は好景気に沸きました。この頃は、高校生2,3年生の年齢に達しています。 しかし、ものごとには正の側面と負の側面があるように、日本はうまくいくばかりではありませんでした。1972年の「あさま山荘事件」です。このときはちょうど成人した頃ですね。そして、その犯人グループも20歳代前半でした。大学の先輩の世代が、日本に知れ渡る事件を起こしたのですから、感じるところはあったかもしれません。特に東京の大学生は、思うところが多かったのではないでしょうか。 あさま山荘事件は、学生運動を背景にしています(直接的には社会主義の活動が原因ですが)。学生運動は、1920年代からの連綿とした動きがありましたが、運動が激化したのはベトナム戦争時でした。戦争反対の運動と結びついたのです。戦争反対だけであれば問題ないのですが、自由主義的なアメリカへの反発として、反動的に社会主義へ振れたのです。その結果、行き過ぎた全体主義となり、さらには革命へと向かったのです。 しかし、もともと学生運動自体は、演説や討論会といった過激なものではありませんでした。しかし、戦争反対の運動と結びつき、政治問題に関心のない学生にもその活動が波及すると、デモや講義のボイコット、バリケードでの大学封鎖と波紋が大きくなってしまったのです。そして、学生運動の中心には、「活動家」と呼ばれる人物が存在していました。彼らは、政治組織に属しており、当時は「赤軍」や「新左翼」と呼ばれるものがありました。 そして、「連合赤軍」があさま山荘事件を起こしたのですが、実はこの頃には学生運動は下火になっていたそうです。まだ学生運動に参加していた方もいたでしょうし、あるいは逆に「まだそんなことやってるのかよ」と反発する立場にいたのかもしれません。つまり、学生運動が激化し(つまり、ひとりよがりの暴力的性格を帯びたために)、一般の支持を得られなくなってしまった頃にあさま山荘事件が起こったのですね。実は学生運動の初期は、若々しい正義感は一般大衆に受け入れられていたのです。自分たちの能力を社会の矛盾を正すために使うといった姿勢は、幼く見える一方で、多くの人の共感を得てもいたのです。しかし、革命的思想と結びつき、民衆の価値観からの乖離が生じたために、この共感は次第に失われて行きました。 また同時期に、オイルショックも起こっています。中東戦争に端を発する石油価格の急激な上昇です。これにより、日本の好景気は終結を遂げます。以降、日本は低成長時代に入りました。しかし、すぐにバブル経済が起こりました。日本はまた好景気を経験することになります。なおバブル経済は1986年から1991年の好景気を指していますが、この頃は30歳代前半になります。 バブル経済の好景気の中、元号は平成に変わりました。そしてようやく冷戦が終わり、ベルリンの壁が壊されます。1991年にはソ連自体が崩壊し、ロシア連邦が打ち立てられます。そして2000年代、つまり40歳代には、世界恐慌が起こってしまいます。その余波は当然日本にも届き、結果として「リストラ」という言葉が広く膾炙されることになりました。あとは皆さんのよく知るところです。

定年退職とは?

単に「退職」というと、仕事を辞めるという意味なので、ここでは定年退職について書きたいと思います。 まず、労働者が一定の年齢(定年年齢)に達すると、自動的に雇用関係が終了する制度を定年制といいます。定年により退職することを「定年退職」というわけですね。そして現在は(2012年では)、定年を徐々に60歳から65歳に引き上げつつある段階にあります。ちなみに、1970年代は大企業であれ55歳が定年とされていました。 そして、会社が定年制を導入するためには、定年に関する事項を就業規則に明記して、かつその定年制が慣行的に行われている必要があります。多くの日本企業と公務員は、定年制を導入しています。しかし、一方で定年退職制を導入しないこともできます(そのような企業は少ないのですが)。 なお、定年退職者を継続雇用することも可能です。もちろん、これについても就業規則に定めることが必要です。これを「継続雇用」といいます。 しかし、今のところ「高齢者雇用安定法」によって、定年は59歳以下の年齢に設定することができない状況です。つまり60歳は、定年とできる最も若い年齢だということです。そして平成25年4月1日から、この法律が改正されて、定年を65歳に引き伸ばすことを推奨する動きになっています(定年の下限を65歳と定めるものではありません。あくまでも「奨励」です。今のところ)。 定年退職といっても、なかなか変化があるのですね。退職のお祝いのタイミングが今後変わるかもしれません。

退職される方たちの歴史

2013年に60歳で退職される方を例にとって、どんな人生を歩んできたのか、ちょっと見てみることにしましょう。 わかりやすく考えるために、細かい数字は切り捨てて計算しますね。退職される方は、1953年に生まれました。 1945年に第2次世界大戦(太平洋戦争)が終わり、それから7年間、日本はGHQによって占領されました。アメリカ軍が引き上げたのは1952年なので、退職を迎える方は、ちょうどその頃に生まれたわけです。 ちなみ、戦争が終わった直後の1947年から1949年までに生まれた人が「団塊の世代」と呼ばれています。というわけで、2013年に退職される方は、正確には団塊の世代ではないのです。しかし、団塊の世代は、見方によって定義が様々あるようです。そのため、広義的に1946年から1954年を団塊の世代と呼んでも間違いではありません。 歴史の話に戻ります。第二次世界大戦が終わると、今度は冷戦の時代に入りました。ソ連とアメリカの対立です。占領下にあった日本は当然アメリカ側(「西側」)にありました。この冷戦の影響のため、朝鮮半島は分断されました。そして1965年にベトナム戦争が起こりました。12歳の頃ですね。小学校6年生のときに、ベトナム戦争が起こったわけですが、どういう実感があったのでしょう?つい最近もアメリカとイラクの戦争がありましたが「感想はあるか?」と聞かれても、困りますよね。 しかし、このベトナム戦争のおかげで、日本は高度経済成長を遂げることができました(アメリカ軍の物資を生産したため)。同時に東海道新幹線が通り、東京オリンピックが開催しました。1970年には大阪万博も開催されて、日本は好景気に沸きました。岡本太郎の『太陽の塔』が有名ですよね。 1972年には、あさま山荘事件が起こりました。このときのテレビ視聴率は89.7%だったそうです。すごいですね。このときはちょうど成人した頃でしょうか。そして、その犯人グループはも20歳代前半ですので、同年代と言っても良いくらいですよね。それにしても若い。 というのも、当時は学生運動が盛んだったのです。学生運動の背景を探ると、1920年代からの流れはあるようですが、運動が激化したのはベトナム戦争時です。戦争反対の運動と結びついたわけですね。 学生運動自体は、学生が自分の主義・主張を演説したり、討論会を開くといった地味なものです。しかし、政治問題に関心のない学生にもその活動が波及すると、デモや講義のボイコット、バリケードでの大学封鎖と進みます。そして、学生運動の中心となる「活動家」と呼ばれる人物は、政治的組織に属していることが多かったそうです。その政治的組織が「赤軍」「新左翼」と呼ばれるものです。 前述のあさま山荘事件を起こしたのは「連合赤軍」ですが、この頃になると学生運動は下火になっていたそうです。計算すると、大学に入って1,2年生くらいでしょうか。実際に学生運動に参加していた方もいるでしょうし、あるいは逆に「まだそんなことやってるのかよ」と反発する立場だったのかもしれません。ただし社会学的には、学生運動が激化した時期に、それに参加していたのは団塊の世代と言われているようです。しかし、この年代は口をつぐんでおり、なかなか体系的な視座を得ることができていません(思想によって会社を解雇されるかもしれませんしね)。 そしてオイルショックが起こり、日本の好景気は一旦ピリオドを打たれます。それからは低成長時代に入ります。しかし、すぐにバブル経済が起こります。バブル経済は1986年から1991年の好景気を指していますが、この頃は30歳代前半という計算になります。どれくらいお給料をもらっていたんでしょうね。バブルの「逸話」みたいなものは聞きますが、真偽はどうだったのか気になります。 バブル経済の好景気の中、日本は昭和から平成に変わりました。そしてベルリンの壁が崩され、冷戦が終わります。1991年にはソ連が崩壊。ポスト冷戦時代に突入します。この頃に、社会学上の バブル崩壊がありますが、まだその余熱のようなものは残っていたそうです。そして2000年代、つまり40歳代には、世界的な不況により「リストラ」という言葉が多用されることになります。 ただし、このリストラの対象となったのは団塊の世代よりも少し若い世代であったようです。もちろん、ピークがその年代というだけで、団塊の世代もリストラの影響下にあったことは疑いの余地はありませんけれど。 それ以降は、皆さんのよく知るとおりです。私の個人的な印象ですけれど、団塊の世代は、変革の手前をすり抜けていった世代のように感じます。扉が閉じる直前に、するっと入っていったような、そのような印象を受けます。

還暦お祝いのマナー

【上司へのプレゼント】 退職される方にふさわしいプレゼントは、何が良いのでしょう? まず、靴下や下着は避けた方が良いとされています。靴もスリッパも避けて下さい。こういった体の「下」に身につけるものは、相手を見下していると受け取られるからです。 それから、現金を贈ることもいけません。下の者から上の方に現金を贈ることは失礼にあたります。お祝いであっても、現金は避けましょう。 それでは、どんなプレゼントが相応しいのでしょうか。 定年退職されるということは、それまでの仕事から一旦離れるということですよね。継続して働く方もおられるかもしれまえんが「第二の人生」のスタートということには変わりません。ですので、このスタートを応援するようなプレゼントを贈るのが良いのではないでしょうか。   【退職祝いを贈るタイミング】 退職の決定を確認してから、遅くとも1,2週間以内に贈るのが良いです。部・課の単位で同僚や有志の人たちで歓送会を開き、そのときにプレゼントを贈ります。ただし、直属の上司や、お世話になった先輩であれば個人的に贈り物をしても大丈夫です。   【プレゼントの相場と表書き】 水引は紅白の蝶結びが基本です。蝶結びは、何度でも解き、結び直すことができるので「何度合っても良い」という意味で使います。働くのが辛くて辛くてしょうがない、という方には蝶結びは良くないかもしれませんが、基本は蝶結びですよ。そして、表書きは「御引退御祝」や「御定年御祝」「御祝」などが用いられます。「勇退」は自分から会社役員を退いた場合に使う言葉ですので注意して下さい。

イタリアの年金制度

イタリアの公的年金制度について紹介したいと思います。 イタリアの公的年金の基礎となっているのは「全国保証金庫」と呼ばれる基金です。これは1898年に設立され、肉体労働者が対象になっていました。このときは加入は任意でしたが、1919年に強制的に加入させられるようになりました。そして名称が「全国社会保険金庫」と変わりました。 この全国社会保険金庫は、月収350リラ以下の労働者と一部の自営業者に対して、老齢年金、障害年金、遺族年金を保障するものでした。1919年付近の1リラが何円なのかというデータがなかったのですが、1950年代から1リラは約60円くらいで推移してきています。なので、350リラは2万1,000円です。月収で2万円ってずいぶん安いですよね。この全国社会保険金は、ムッソリーニ政権下で補完・補足され、のちの公的年の基礎となっています。 被保険者の範囲が拡大したのは、第2時世界大戦後でした。1950年に保険に加入できる所得上限が撤廃されたことによって、誰でも保険に加入することできるようになりました。これで公正の皆保険と呼べる状態になりました。さらに、1950年代から1960年代にかけて、保険への加入が義務付けられていく職種が増えて行きました。まず1957年に自営農家、小作農、折半小作農が、1959年に職人、1966年には商人が保険への加入が義務付けられていったのです。この同時期に、年金の下限を増額しています。 1960年代から1970年代には、さらに保険が拡充されました。その背景にはユニバーサリズム、つまり「いつでも、どんな人でも」という考え方がありました。そのため1965年に「社会基金」が創設されました。この基金は、「社会年金」という給付を行うものでした(対象者は65歳以上の低所得者層です)。この基金は1989年に廃止されたものの、「全国社会保障機関(INPS)」の一部となり、その役割を引き継ぐことになりました。その名称は「扶助措置・保障事業支援事業(GIAS)」といいます。 しかし保険の適応範囲を増やし、手当を厚くしたことによって、国の財政を圧迫することにもなってしまいました。例えば、年金額の算定が「退職直前5年間の平均報酬」となったり、年金の開始が「年齢ではなく、退職したという事実(15年以上の就労が必要ですが)」だけで可能になったりしたため、バランスを欠いた給付となってしまったのです。 その結果、少子高齢化の影響も受け、イタリアの財政に大きな負担になりました。1990年代からは、これらの過度の給付を修正する措置をとっています。これらの措置として、受給年齢の引き上げ(男性65歳、女性60歳)、加入期間の延長(20年)、受給要件の見直し、拠出方式の見直し、報酬方式の修正などです。 しかし、労働形態を偽って不当に受給する人、あるいは保険料の負担を逃れる人が増加したため、強制保険制度が拡張することになりました。その一方で、この公的年金制度を保管するために補足的保障制度も創設されています。ただし、この補足的保障制度はあまりうまく機能しておらず、予測された対象者の12%ほどしか加入していない現状です。

トルコの社会保障制度

フランスでは2010年、年金の満額受給のための年齢を60歳から62歳へ引き上げたことで大規模な反対運動がありました。最終的には、多くの国では62歳の受給開始は受け入れられるかもしれませんが、トルコでは話が別かもしれません。 トルコにおいては、退職の年齢は実質的に男性で45歳、女性で41歳となっていると、経済協力開発機構(OECD)が10月の報告書で明らかにしました。OECDは、33か国が加盟する政策調査機関のことです。 実は、トルコでは定年制度を1969年に廃止しています。それ以来、トルコの労働者は自分で年金を受け取る年齢を決めることができるようになりました。受給のための手続き、ルールは複雑ですが、保険料の支払義務はおよそ25年だそうです。OECDの報告書にあるように20歳で働き始めるとした場合40代半ばで満額の年金を受給できることになるわけです。 なお、OECDが調査した30カ国の中で、満額受給できる年齢はトルコが一番低かったようです。ギリシャがこれに続いて男性・女性ともに57歳。スロバキアが男性62歳、女性が57歳でした。 そしてトルコの社会保障制度は、2007 年に大幅に変更され、異なる社会保障基金を単一機関で管理するようになり、より効率的かつ迅速に機能する制度となりました。 詳しく言えば、一般社会保険組合 (SSK)、年金基金 (Emekli Sandigi)、および自営業者保険組合 (Bag-Kur) の3種類の保険基金が統合されました。そして2007 年に社会保障機構 (SSI) と呼ばれる単一機関になったわけです。これは2008年には、人口の約 81% をカバーしています。

アメリカの年金制度

アメリカにも公的年金制度があるのはご存知でしょうか。老齢・遺族・障害保険(OASDI)というもので、民間の被雇用者と自営業者共に加入が義務付けられています。ただし、自営業者のみは年収が400ドル(だいたい50万円くらい)以上という要件があります。 この制度は1937年に始まった制度で、当初は公務員が対象外でした。今でも地方政府職員の参加は任意ですが、それ以外は強制加入となっています。そのため、公務員はOASDI以外にも、独自の年金制度を持っています。 OASDIが支給するのは、老齢年金、家族年金、遺族年金、障害年金の4種類です。日本には家族年金という制度はありませんが、日本の老齢厚生年金に相当する年金です。 そして、老齢年金を例にとってみますが、原則として10年間の加入期間が必要です。またアメリカの場合、四半期ごとに保険料納付をチェックし、パスすれば1クレジットを得ます。そうして40クレジット貯めると、受給資格を満たします。また、日本と同じように、支給開始の繰り上げ、繰り下げが可能です。 そしてこれもまた日本と同じように、支給年齢が段階的に引き上げられています。1960年以降生まれは、67歳からの支給となる予定です。 また年金の額ですが、それぞれの収入に合わせた保険料であるので、人それぞれで年金額が変わります。これはいかにも西洋的ですよね。稼いだ分納めて、納めた分もらう。合理的です。それに対して、日本は免除制度があったり、国庫負担があったりと、みんながある一定の額はもらえるように作られています。出る杭は打たれる一方で、出ない杭は守られているんですね。

動物の寿命

日本では平均寿命が男性が80歳、女性が86歳くらいです。「古来から稀だ」という意味の古希(70歳)も、もはや稀ではなくなってきました。退職が第2の人生のスタートと呼ばれるほど、60歳を過ぎても若々しい人は多いです。では、人間以外の動物の平均寿命はどれくらいでしょうか。比べて見ることにしましょう。 ・バンドウイルカ 40年と言われています。ただし、オスは30年以上生きるのは珍しく、メスが50年生きるため、平均40年となっています。バンドウイルカは最もよく知られたイルカで、水族館で見ることができます。 ちなみにバンドウイルカは「半島」イルカと書いて、学会ではきちんと「ハントウイルカ」と呼ばれています。英語ではボトル・ノーズ・ドルフィン、つまり瓶の鼻のイルカと呼ばれています。このイルカは「泳ぎの達人」とも称されています。普通は5-11 km/h程度の速さで泳ぎますが、短時間なら45km/hで泳ぐこともできます。さらに小回りも効くので、泳ぎの達人と呼ばれるわけです。 ・シャチ 50-80年。オルカとも呼ばれます。アイヌ語では「沖の神」とも言われ、攻撃的で巨大な生物です。 寿命としては、ヒトのオスと同じくらいですね。大きさは、オスが5.8-6.7mで、メスはそれより1m小さいくらい。体重はオスが3.5-5.5トン、メスが1.3-3.5トンもあります。 そして4種類のシャチがおり、それらは1万前からユニークな種として暮らしています。大まかな区別の仕方は、目の上の白い部分の大きさです。ここはアイパッチとよばれ、種固有の形態を取ります。そして、それぞれの種は食性も異なり、小型のクジラを捕食するもの、主に魚を捕食するものなどがあります。 そして食物連鎖の頂点に位置し、彼らを捕食する動物はいません。知能も高く、必要のない闘争は行いません。一旦、口に魚を入れて吐き出し、それを目掛けてやってきた鳥を食べた例もあるほどです。本当に賢いですね。 ・アオダイショウ 20年。日本全国に生息する蛇で、体長は1-2mになります。ネズミを食べるため、人家周辺で多く見られますが、逆に山の奥では見られることはありません。基本的に樹木の上で暮らしていますが、地表での活動も多く見られます。さらに、木に登るときは、垂直に登ることができます。これは腹部の両側にキールと呼ばれるカギがあるためです。これがない蛇は木に巻き付くように登っていくのです。天敵は、イヌワシ、タヌキ、イノシシ、カラスです。 ・シーラカンス 60年程度だろうと予測されています。6,000-7,500万年前に絶滅したと考えられていましたが、1983年に南アフリカの漁師によって捕獲されました。現在確認されているシーラカンスには2種類あり、この南アフリカのものと、インドネシアのものです。化石を見ると、さらに別種のシーラカンスも存在しており、タイのように平たく背の高いものや、アンコウのように横に潰れた形の種も確認されているそうです。 ・コモドドラゴン 50年です。地球上で最も重いトカゲで、2-3mあります。主にインドネシアの島々に生息しています。なんと18km/hで走ることができ、これは自転車でも追いつかれます(もちろん急げば追いつかれませんけれど)。ちなみに、100mを10秒で走ると36km/hです。100mを20秒で走り切れない限り、このトカゲに食べられてしまいます。 またこのトカゲは、咬み傷からの感染症によって獲物を死に至らしめると考えられていました。これでウシやシカを弱らせて食べるのですから、大したものですよね。ただ、最近は「牙に毒がある」という説が有力です。蛇と同じように、毒を持った爬虫類だったのですね。 ・ガラパゴスゾウガメ さすがはカメ、100年以上です。なお記録にあるうちで最も長寿な個体は推定176歳でした。このカメを見て、チャールズ・ダーウィンは進化論の着想を得たと言われています。というのも、このカメの甲羅は、そのカメが住んでいる島によって異なっているためです。ガラパゴス諸島は数多くの島々からなり、その島ごとに独自の分化を遂げたわけですね。なお草食で、サボテンや花、果実を食べます。そして新陳代謝が低いため、飲まず食わずでも1年程度生きることができるそうです。 ・ホッキョクグマ 20-25年です。地上最大の肉食動物で、オスは体長が2.5mになります(調べてみると、ヒグマのほうが大きいようです)。ホッキョクグマの体毛は特殊で、中空の構造になっています。毛が白いこと、そして空洞の構造があることによって、太陽の光はロスが少なないまま、体表に熱を与えます。しかし逆に、体表からの熱が外に逃げるのを防ぐという性質もあり、素晴らしい保温機能が得られています。この放熱を防ぐ性質は非常に優れており、赤外線カメラで撮影しても、ホッキョクグマの姿を捉えられないほどだそうです。 主食はアザラシですが、魚、鳥、昆布なども食べる雑食です。知能が高く、アザラシが呼吸をするための氷の穴のところで待ち伏せして、捕食します(逆に賢いアザラシもいて、水中から呼気で泡を吐き出してクマをおびき寄せ、別の穴で呼吸を済ませる個体もいます)。

昭和28年

*昭和28年(1953年)の出来事 01/10    : 大洋と松竹の合併に伴い、セ・リーグは6球団制へ移行。 01/13    : ヨシップ・ブロズ・チトーがユーゴスラビア大統領に就任。 01/13    : プラウダ紙が「ユダヤ人医師らがソ連要人の毒殺を企てた」と報道、ソ連史上の最大の反ユダヤキャンペーンに発展。(医師団陰謀事件) 01/28    : 東京・銀座で風船に使用した水素ボンベが爆発。死者1名(銀座チョコレートショップ爆発火災)。 02/01    : NHKが日本で初のテレビジョン本放送を東京で開始。 02/04    : 第一大邦丸事件。 02/19    : 別府市警察署事件。 03/14    : 衆議院解散(バカヤロー解散) 03/21    : 資生堂、「ドルックス オーソドックス(ノーマル)」発売。 03/24    : 国際電信電話株式会社(KDD)設立 03/25    : 東洋水産(当時:横須賀水産株式会社)設立 04/19    : 第26回衆議院議員総選挙投票(1955年1月24日解散(天の声解散))。 04/20    : ボストンマラソンで、日本の山田敬蔵が2時間18分51秒のタイム(当時の世界最高記録とされたが、後に距離不足が判明)で優勝。 05/18    : 旧二級国道が施行 05/18    : 第16特別国会召集(8月10日閉会)。 05/29    : エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイがエベレスト初登頂を果たす。 06/02    : イギリス女王エリザベス2世が戴冠。 06/17    : 前日から東ベルリンで起きていた、市民による反東ドイツ政府デモがソ連軍に弾圧される(6月17日事件)。 06/18    : アメリカ空軍のC-124輸送機が東京都小平市に墜落、死者129名(立川基地グローブマスター機墜落事故)。 06/19    : ローゼンバーグ夫妻処刑(ローゼンバーグ事件)。 06/20    : 中日球場のナイター設備が完成。 06/25    : 岡山県加茂町の加茂中学校体育館にて映画を上映中に火災が発生し生徒ら13名焼死。 06/25〜29 : 昭和28年西日本水害。九州地方を中心に758名の死者を出した集中豪雨が発生。 07/03    : ヘルマン・ブールがナンガ・パルバットの初登頂に成功。 07/17〜18 : 南紀豪雨(紀州大水害)。和歌山県を中心に死者・行方不明者1,046名を出した集中豪雨が発生。 07/26    : モンカダ兵営を襲撃したキューバ革命記念日。 07/27    : 朝鮮戦争の休戦成立。 08/08    : ソヴィエト連邦が水爆保有を発表。 08/08    : ラズエズノイ号事件。 08/10    : 静岡県三島市にある花火工場で爆発があり8名死亡、2名重傷。 08/14〜15 : 南山城豪雨。京都府南部を中心に死者105名。朝日新聞により日本で初めて「集中豪雨」の語が使用される。 08/28    : 日本テレビ放送網(日本初の民間放送によるテレビ局)がテレビジョン本放送を開始。また日本で初めての放送事故が発生。 09/01    : トヨタ自動車、「トヨペット・スーパー」を発売。現在の「クラウン」の源流。 09/27    : 巨人が対阪神ダブルヘッダーに連勝し、3年連続セ・リーグ優勝(V3)。 10/01    : 町村合併促進法施行。 10/16    : 日本シリーズで巨人が南海を4勝2敗1分で下し、3年連続の日本一達成。 10/29    : 第17臨時国会召集(11月7日閉会)。 11/21    : ロンドン郊外で発見されたピルトダウン人、捏造と発覚。 11/30    : 第18臨時国会召集(12月8日閉会)。 12/10    : 第19回国会召集(1954年6月15日閉会)。 12/17    : 東急不動産設立。 12/25    : 美群島が日本に返還。

天然痘と赤色

江戸時代、天然痘除けのため、赤い達磨が使われていたそうです。天然痘は、今ではもう根絶されましたが、致死率40%にも達する恐ろしい病気でした。 天然痘は、医学的には痘瘡(とうそう)と呼ばれています。「痘」とは、皮膚にできものができて、あとが残る病気の総称で、「瘡」はできもの、かさぶたを意味します。つまり、痘瘡は字のごとく、できものが生じる病気ということです。 そして、この病気の怖ろしいところは、皮膚にだけ水疱(すいほう:水ぶくれ)が生じるのではなく、臓器にも生じるという点です。そのため、臓器不全に陥り、死に至るというわけです。ただ、この水疱自体は2-4日で治るため、この期間を超えれば生存できます。なお一度、痘瘡にかかると抗体ができるため、二度と罹ることがありません。 そして、江戸時代ではこの痘瘡を避けるために赤い達磨が使われていました。これは痘瘡神が赤色を嫌っているためです。そのため、患者とその家族は赤いものを着て、赤い布団を用い、赤飯、鯛を食べ、赤い絵を掲げて過ごしました。  

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